2018年(平成30年)大河ドラマ「西郷どん」(せごどん)において重要な役割を担うであろう薩摩藩主・島津家。第11代藩主・島津斉彬は西郷どんと親密な関係であった一方、弟・久光との関係は険悪であった。島津3代の銅像がある照国神社・探勝園を散策しよう。
島津斉彬(1809-1858)
島津斉彬公は、下級武士、西郷どんを見出し、重職に抜擢する。西郷どんも生涯忠誠を貫き、支え続けた。親密であり、強い主従の関係であった。
↓島津斉彬銅像
幕末の激動の中で他藩に先駆けて反射炉や機械制工業など近代化政策、いわゆる集成館事業を行った。
そんな島津斉彬公を祭神として祀るのが照国神社である。境内には島津斉彬公を始め島津3代の銅像がある。「探勝園」は照国神社に隣接している。
↓照国神社
「探勝園」は、現在は公園となっているが、当時は鶴丸城二の丸の名園で、山の裾を利用したそれは立派な庭園であったそうだ。
↓探勝園の配置は上方に二の丸
1917年(大正6年)園内とこれに隣接する照国神社境内に島津斉彬公と弟・島津久光、そして薩摩藩最後の藩主となる第12代・島津忠義の三公の銅像が建立された。
島津久光(1817-1887)
島津久光は斉彬公の異母弟。薩摩藩第29代藩主・島津忠義の父として実権を握った。
斉彬との仲は良く「国父」と呼ばれるまでになる。
↓島津久光銅像
誠忠組(若き西郷どんや大久保さんが結成)の意見を聞く中で日本の置かれた状況に危機感を覚え、国政改革に乗り出すようになる。特に大久保さんを積極的に登用した。
久光と西郷どんの関係は悪かった。それは「公武合体政策」の実現と幕政改革を目的に状況計画を企てたとき。当時奄美大島に潜伏していた西郷どんを呼び出し、協力を仰いだが、西郷どんは計画の未熟さから厳しい言葉を伝え、屈辱を与える。すぐに西郷どんは島流しにされてしまった。
後年、西南戦争が勃発した時も、西郷軍の味方は決してしなかった。久光にとっては、西郷どんは自分にとって裏切り者にしか映らなかったのだろう。急速な西洋化を嫌い、死ぬまで帯刀をやめず、まげも切らなかった。
島津忠義(1840-1897)
薩摩藩最後の藩主となる第12代・島津忠義。現在の今上天皇の曽祖父にあたる。藩主でありながら実権は父、久光や西郷どん、大久保さんに握られていた。明治維新後は進んで版籍奉還を行い、鹿児島藩の知事、のちに貴族院議員となる。父・久光の遺言のもと、こちらも死ぬまでまげを切らなかった。
島津3代の銅像「照国神社・探勝園」
《住所》 鹿児島県鹿児島市照国町19−35
《連絡先》099-222-1820(照国神社)
《時間》8:30~17:00
《休み》年中無休
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